妙高寺は740年余り前の鎌倉時代、1265年(文永2年)内ケ巻城主(現在の小千谷市川井内ケ巻)で新田氏の一族 田中大炊介源義房(たなかおおいのすけみなもとのよしふさ)により創建された曹洞宗の寺院です。
寺伝によると本尊愛染明王はその昔、伊豆の田中の荘(静岡県)に安置されており、配所にあった源頼朝が源氏の復興を願い深く信仰されていたといわれています。
その後一族の新田氏が供養をしていましたが、田中大炊介が内ケ巻城主となる際、この地に一緒にお移しし一族の興隆と領民の繁栄を祈願し妙高寺を建てました。
開山は当時の高僧清津天海禅師でその徳を敬慕する人が大変多かったそうです。
愛染明王の御威徳と天海禅師の道業は後醍醐天皇のお耳にまで届き、鎌倉時代後期の正中年間(1324年頃)天皇より紫衣黄衣(僧侶の中でも徳の高い人にのみ着ることが許された法衣の色)の御下賜があったと伝えられています。
文禄5年(1594年、安土桃山時代)長岡、洞照寺より果翁良珊(かおうりょうさん)和尚が入山、それまでの真言宗より曹洞宗に改宗するとともに愛染明王の御本誓の尊さ有難さをさらに教え広めました。
徳川五代将軍綱吉の時代、天和3年(1683年)には幕府より除地高10石余を明王の永久供養のもとでにと附与されました。
この間、明王は広く十方に信仰され、参詣する人は後を絶えませんでした。御霊験、御利益も数知れません。
また、妙高寺は妻有(つまり)百三十三番霊場の百十四番札所ともなっています。(妻有:十日町市を中心とした新潟県南西部地域の古称)
大正13年火災により堂宇を焼失し、それまで山の上にあった寺を現在の場所に移転し今日にいたっています。
山号の駒形は当初の寺の建てられた山の形が名馬の走る姿によく似ていたことにより、寺号の妙高は寺の位置が非常に景勝の地であり霊気が漂いあたかも須弥山のようだったことによります。
※注:須弥山(しゅみせん、サンスクリット語でスメール山)とは仏教の世界観の中で中心にそびえる山のこと 「須弥」とは音訳で意訳では「妙高」
鎌倉時代 | 伊豆の田中の荘(静岡県)に愛染明王は安置され、源 頼朝が深く信仰する。 |
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鎌倉時代・文永2年 (1265年) |
源氏の一族、新田氏家臣の田中大炊介源義房が、内ケ巻城主となる際に 愛染明王を伊豆からお移しする。 清津天海禅師を開山として迎え、妙高寺を建立。 |
鎌倉時代・正中元年 (1324年) |
後醍醐天皇より天海禅師の道業に対し紫衣黄衣を賜る。 |
安土桃山時代・文禄3年 (1594年) |
越後長岡の洞照寺より、禅を極めた果翁良珊(かおうりょうさん)和尚が入山。この時、曹洞宗となる。 |
江戸時代・天和3年 (1683年) |
愛染明王の御威徳にたいし、幕府より除地高10石余を明王の永久供養のもとでにと附与される。 |
江戸時代 | 各地で巡礼が盛んとなり、妻有百三十三番霊場の百十四番札所となる。 |
大正13年 (1924年) |
火災により伽藍をすべて焼失。奇跡的に愛染明王のみ火災を免れる。 |
大正14年 (1925年) |
現在の位置に場所を移し、堂宇を再建。この際、愛染明王を安置するお堂は、防火のため当時の最新技術を取り入れ、鉄筋コンクリートづくりとする。 |
昭和38年 (1963年) |
参詣路の整備に着手し、158段の石段を整備。 |
昭和42年 (1968年) |
さらに参詣路として自動車道、駐車場を整備。 |
昭和52年 (1977年) |
鉄筋コンクリートの劣化により、本堂を全国の信者・檀家からの寄進により、木造で再建。 |
昭和57年 (1982年) |
寺の内鎮守であり、河川交通の守り神であった蔵王権現の御堂(蔵王堂)を現在の地に再建。 |
平成12年 (2000年) |
旧寺屋敷周辺にあった田中大炊介源義房の墓を境内に安置。 |
平成16年 (2004年) |
妙高寺にお参りする人全ての、悩み、苦しみが消え、やすらぎが得られるようにと願いをこめて、安らぎ地蔵を建立。地下はに納骨堂(永代供養墓)を設け、亡くなった方々の安寧を祈願。 |
平成16年 (2004年) |
中越大地震により甚大 な被害を受けるが、檀家を中心に多くの方々の協力により何とか復旧。現在にいたる。 |