蔵王権現は妙高寺の内鎮守(守護神)で昔から「ざおうさま」と呼ばれ親しまれています。
また、かって河川交通が盛んであったころ、この地は信濃川、魚の川に近かったため、通船業者や漁業関係の人々が熱心に信仰していました。
蔵王権現堂の直下の信濃川には内ケ巻、栃ケ巻という二代渦巻きの難所があり、そのすぐ下流の川口町には二大河川の合流する大変危険な場所がありました。
そのため、船がこの難所を通る際には蔵王権現を拝み、お神酒とお燈明をささげて無事を祈っていました。
この難場で遭難しかけ、一心に蔵王権現に祈って九死に一生を得た話は数多くあります。
なかでも明治のはじめ、浦佐(魚沼市浦佐)の船が川口の合流地点で遭難し、必死に蔵王権現と愛染明王におすがりしたところ、危うく難を逃れ、そのお礼に愛染堂と蔵王堂の維持にと杉1,000本を植え寄進したことは有名な話です。
交通手段が車に代わってからは交通安全や災難除けの仏さまとして信仰を集めています。
内ヶ巻城主で新田家の一族、田中大炊介源義房(たなかおおいのすけみなもとのよしふさ)~「田中大蔵」は文永2年6月1日(1265)愛染明王をそれまで安置せられていた伊豆よりこの地にお移しし、自ら開基となって風光明媚の山上に一寺を建立しました。これが妙高寺の起こりです。
以来、城主田中大蔵は愛染明王を城の守護神として崇め、一族と領民の繁栄を祈願し、また、明王の御威徳と御霊験を広く世間に流布しました。
一方、妙高寺は開基として旧境内の近くに田中氏の墓を建て、手厚く護持、供養していました。寺は大正13年火災により伽藍を焼失し、現在の地に再建しました。
墓はしばらく旧屋敷にそのままありましたが、平成14年この地に移転、城主の遺徳を偲び供養をしています。
当寺の旧屋敷にいちょうの大木があります。これを乳いちょうと呼んでおります。
昔、当山の開基、内ヶ巻城主田中大炊介源義房(たなかおおいのすけみなもとのよしふさ)が愛染明王(あいぜんみょうおう)の御尊像をこの地にお移しする際、来朝坊(らいちょうぼう)という僧に命じてお厨子に入れて、伊豆からこの川井まで背負わせて来ました。来朝坊は幾十里の山河を越え、この地に着いて一旦、厨子をおろして休憩し、眼前の眺望に見惚れておりました。やがて、また歩き出そうとしたところ、厨子が動きません。そばに立てかけて置いた杖も根が生えたようにどうしても抜くことが出来ません。これは不思議なことがあるものだと、急いでこのことを義房公に話すと
「それはきっと愛染明王がそこにいたいというお告げであろう」
と申されました。そして、そこへ一庵を建てて安置奉り、駒形山妙高寺が開創されたのであります。 杖はそのまま根をはやし芽を吹いて、いちょうの木になり、やがて大きな乳房の形をしたたくさんのコブが出来るようになりました。
さて、文化初年の頃、近在の細島村に忠兵工という農家がありました。そこのお婆さんは70才位でしたが、嫁が乳呑児を残して死んだために乳がなくて大層困っていました。そこで愛染明王に21日の願をかけておこもりをしたそうです。朝夕いちょうの木の下で
「私にもこの木のような乳房があったらな」
と嘆いていたところ、満願の前夜不思議な夢を見ました。老婆がいつものようにいちょうの木の下に立っていると、どこからともなく一人の美しい婦人が現われ老婆に向って言いました。
「あなたは子どもに飲ませる乳がなく大変お困りのようですね。幸い私はたくさん乳があまっています。あなたに差上げましょう」
と、そこで夢は覚めました。お婆さんは、これはきっと愛染さまのお告げに違いないと急いでわが家へ帰りました。すると不思議なことにお婆さんの乳房から突然乳が出てきたではありませんか。家中のものの驚きと喜びはそれはそれは大変なものでした。乳が出るようになったおかげで、その子は立派に成人することが出来たということです。
これを聞いて遠近から乳の出ない人が沢山お参りに来るようになりました。(大正13年当山が火災に遭い現在の地に移ってからは、この木までは遠いので、乳の欲しい人は、愛染様に乳の形をした米袋を奉納し、祈願するようになりました)
この事があってからこの木は乳いちょうと呼ばれるようになりました。
当寺の旧屋敷の東南に柳の木があります。木の下に泉があり、どんな日照りの年でもこんこんと湧き出ています。
このあたりは、約740年前、明王がこの地へ移られた時代には、一面が深い池で、男池と呼ばれていました。まわりは木々がうっそうとして茂り、昼でも暗く、池には主の大蛇がすんでいると言われていました。その頃、寺はまだ出来ておらず、愛染堂という小さな庵であったそうです。当時、天海禅師というお坊さんが愛染明王をお慕いしてこの地に来られ、この庵室で朝夕一生懸命読経供養をしていました。ある夜、いつものように読経していると、背後で誰か一心にお参りしている気配があります。禅師は
「この夜中こんな山の中の庵に人がお参りに来るとは不思議な事だ」
と読経を終って静かに振返って見ました。しかし人影はありません。
「何とも不思議なことがあるものだ」
と思いながらその夜はそのままに過されました。ところが翌晩の同じ時刻にお経を読んでいると、また誰かお参りをしている気配がありました。振返って見ると、ほの暗いローソクの光に、異様な姿の女の人が座っているではありませんか。女の人は禅師に何かを訴えているようでした。禅師は
「あなたは一体どなたですか。何か悩みがおありですかな」
とお尋ねになられました。女は
「実は私は人間ではありません。この池にすむ大蛇です。私は前世からの悪因によって蛇に生まれ、毎日色々な苦しみにあっております。禅師のお徳を聞いて、こうして毎夜お参りしていましたが、今日が21日目です。どうか禅師さまのお徳と愛染様の御威力でこの身をお救い下さい」
と訴えました。 禅師は大変あわれに思われ
「そうでしたか、おかわいそうに。必ずあなたを再び人間に生れ変われるようにしてあげます。だから一生懸命愛染明王をお参りしなさい」
と申され、仏の教えの大切さと、すべての世の中を愛で染めつくそうという愛染明王の大きなお心をおさとしになりました。聞いているうちに、女の人は仏の道と愛染明王の教えに目覚め、いつしか涙を流すのでした。その姿を見ると禅師は
「あなたは今、仏の心と愛染明王の教えがどういうものであるか、解ったようです。その心を持ち続ければ、必ず人の世に生まれかわることが出来るでしょう」
と申されました。女は
「お教えは決して忘れません。おかげさまで再び人間に生まれ変わることが出来ます。本当にありがとうございました」
と言いました。続けて
「このご恩は後の世までも決して忘れません。ご恩の万分の一にもなりませんがお礼を差し上げます。ここは大変高い所で、飲み水はもちろん明王に捧げるお茶も不自由していることでしょう。また、やがて私が人間に生まれ変わってこの池を出て行くと、たちまち池の水は涸れて絶えてしまいます。この御堂にも住むことができなくなります。この池の一角に柳の木を植え、根元に井戸を残しておきます。この水は永久に涸れることがありません」
と言い、禅師と愛染明王に礼拝したかと思うと、姿は見えなくなりました。
740年余たった今でも、泉はこんこんとして年中尽きることがありません。水は寺が現在の地に移転してからは、山行く人々の飲用水として、また田の灌漑用水として有益に使われています。目印の柳はいつの頃からか、蛇柳(じゃやなぎ)と呼ばれ、地域の人に親しまれています。